2017年5月22日に我が家に家族が増えました。男の子です。上の子はもうすぐ2歳になる女の子なので、我が家は一姫二太郎です。

しかし妊娠30週の検査で息子の心臓に「大動脈弁狭窄症」という病気が見つかり、息子はまだ退院出来ず治療中です。

うちの子はその中でも重症でかなりの難病のようで、一時は生死の境目をさまよいましたが、今では驚異的な回復力を見せています。


これまでの奮闘記を残しておきたかったことと、私の周りには同じような経験をした人もなかなかいなくて今回のことを相談できる人もほとんどいなかったし、調べてみても情報も少なかったため、もし今後誰かの役に立つことができればと思い、この激動の3ヶ月間で起こったことを書くことにしました。

(まだ治療段階ですが、本日の7月9日現在までの状況です)


心疾患発覚


2017年3月30日

妊娠30週の産婦人科の検診で心臓に異変があると分かり、妻は翌日に大学病院へ診察に行き、そのまま入院して検査をしました。

しかしそこでははっきりとした状態は分からず、より心臓に詳しい別の大学病院を紹介してもらい、4月10日にそちらで検査をしました。


検査結果は「大動脈弁狭窄症」というものでした。


この病気の治療ができる病院は都内でも限られており、この子のために何がベストな選択か検討した結果、心臓外科で最も有名な榊原記念病院で出産し、治療をお願いすることを決めました。

4月20日に榊原記念病院に行き、そちらでも改めて検査をしましたがやはり診断結果は変わらず、大変な道のりになることを告げられました。

しかもうちの子の場合、大動脈弁狭窄症の中でも特に重症のようで、病院の先生からは無事に生まれるか分からないし生まれたとしても手術室に辿り着けるかも分からない、それを乗り越えたとしてもこの先もリスクの高い難しい手術が何度もあり、どうなるか分からないと言われていました。

また、治療を続けても回復できない状態になった場合、終わりの見えない治療を続けて行くことへの意味、つまり治療を途中で止める決断も考えるようにと言われ、この子の抱える病気の大きさと今後に絶望感しかありませんでした。


この病気の説明はとても難しいのですが、そもそも心臓は全身を流れてきた血液が大静脈を通って右心房に入り、その後右心室から肺動脈を通って肺に行き、その血液が左心房を経由して左心室に行き、左心室から大動脈を通って再び全身に流れるという働きをしています。

しかしうちの子の場合、左心室と大動脈を繋いでいる大動脈弁の機能が上手くはたらいていないため、左心室から全身に送り出す血液の量が少なく、さらに大動脈弁から逆流も起きてしまっていて、そのために左心室が肥大して機能が低下しているという診断結果でした。

そして、左心室の影響により、左心房と左心室を繋いでいる「僧帽弁」も狭窄を起こしており、左心房も機能が低下していました。さらに、全身へ血液を送り出す大動脈が細くなる「大動脈縮搾」も起こしている状態でした。


しかしそれでもお腹の中で元気に育っいる理由は、胎児は上記のような流れとは異なった循環をしていたことによるもののようでした。

胎児の時のみ右心房と左心室を繋いでいる「卵円孔」というものと、肺動脈と大動脈を繋いでいる「動脈管」というものがあります。

そのおかげで左心室の負担が若干軽減されており、それがあるおかげでお腹の中では育っていますが、生まれたらこれらは自然と無くなってしまうものであり、さらに呼吸が始まることにより肺へ大量の血液の流れが始まるため、血液の流れがそれまでとは変わってくるため、まずはそこをコントロールする治療計画から立てました。



手術計画


生まれて24時間以内に無くなってしまう動脈管をすぐに閉じないようにプロスタグランジンという薬で動脈管を開けておくという措置を取ります。

そして、これもまた生後すぐに閉じてしまう卵円孔をカテーテルで広げます。また、肺へ流れる血液が多くなるため、今度はその量を調節するために肺へ流れる血管を少しだけ縛るという措置を取ります。

このことにより、生まれたあともお腹にいた時と同じような血液の流れを作り出すことができます。しかし、これらの措置はこのあとに行う手術が出生直後より少し時間が経って少しでも体力が付いてからの方がリスクが低くなるために、あくまでそのための時間稼ぎのものでした。


その後、ある程度体力が付いた段階で、大動脈と肺動脈を繋ぐ「ノーウッド手術」を行い、その後大静脈と肺動脈を繋げる「グレン手術」を行い、最終的には左心房と左心室の機能を捨て、右心房と右心室のみで生きていける心臓を作り上げるという「フォンタン手術」をおおよそ2年ほどの計画で行うことになりました。

フォンタン手術まで辿り着ければまだ良いのですが、そこまで辿り着けずにノーウッド手術だけや、グレン手術までしか状態によってはできない場合もあり、そうなるとやはり何かと様々な問題が出てきてしまうリスクもあるようですが、まずは生きていくためにはこれがベストならということで、そのような計画で行くことになりました。


そんな計画を立てていましたが、それらはあくまで無事に生まれたらというものであり、まずは生まれてくるまで安静にして慎重に様子を見ていきました。

生まれた直後にどのような対処も可能になるよう、自然分娩ではなく、予定帝王切開での出産となりました。


出産予定の2日前。

執刀医の先生より今後についての説明がありました。執刀医の先生はここの病院の副医院長の高橋先生で、数多くの実績を持つ神の手と言われている方でした。そんな先生に手術をしてもらえることはとても幸運なことで、とても恵まれたことでした。




出産当日


9時から帝王切開をするために運ばれて行き、9時36分に無事に生まれたという報告を聞き安心していると、10時半頃に私だけPICUに呼ばれ、そこで生まれた子を見ることができました。

当初の計画通り、薬を使って動脈管を閉じないようにしていたため、まずは無事に生まれて落ち着いた様子でした。

しかも予想外に状態が良いとのことで、肺動脈を縛るという措置を行うのはまた後日の方がリスクが減るとのことで、まずはこの状態を維持するために卵円孔をもっと開いた状態にする必要があるので、カテーテルでそれを行うことになりました。

しかも11時にスタートするとのことでもう時間もく、説明を聞き、同意書にサインをしてすぐにカテーテル治療が開始されました。

そこまで難易度が高いものではないけど、必ず成功するものでもなくリスクはありますと言われましたが、これは無事に成功し、とりあえず一安心できました。



二回目の手術


次の手術は5月30日。

肺へ送る血液量を調節するため、肺動脈を縛るというのがメインの手術でした。これは心臓を切り開いて行う手術のため、一度心臓を止めて人工心肺を体に取り付け、その間に肺動脈を縛るということをやる手術でした。

これも調節が難しいようで、きつすぎても緩すぎてもだめなようです。最初は血管を縛って10ミリにしてみたけどそれでは緩かったため、9ミリにしたら血流が良かったため、その太さにすることになりました。人工心肺を取り外し、自分の心臓を戻したらすぐにしっかり動いたため、手術は無事に成功しました。

しかし、この手術が本当に成功したかどうかはその後の経過が重要で、しっかり血液が流れていれば尿が出るようになるため、尿が出るかどうかが重要でした。

ですがうちの子はそこもしっかり乗り越えてくれ、ICUを5日ほどで出ることができ、PICUへと戻っていきました。

その後は母乳も飲むようになり、体力も付いて免疫力も上がってくるという状態になってきました。



手術計画の変更・ロス手術へ


まずここまできたのが奇跡に近いのですが、その後の様子を見ていたら、左心室が奇跡的にもしっかり働き始めるようになってきました。

この状態なら、フォンタン手術で左心房と左心室をダメにせず、左心房と左心室を生かして2心房2心室という普通の状態でいける「ロス手術」というものが可能となり、そこから手術計画を変更することとなりました。

しかしロス手術をやってみてだめだったからやっぱらフォンタン手術に切り替えるということはできないため、手術の選択も非常に重要なものでした。

その時のその状態が手術をするのにベストな状態だったため、しばらくするとまた状況が変わる恐れがあったので、6月13日に手術が決定してその日のうちに病院から呼ばれて手術の説明を聞き、急遽6月14日に手術を行うことになりました。


しかしこのロス手術もまたものすごく難しいものでした。大人であれば大動脈弁を人工弁に置き換えることが可能なようですが、子供の弁は小さいためにそれができず、簡単にいかない治療のようでした。

そのため、大動脈弁を人工弁にできないなら自分の肺動脈を弁も含めて大動脈へ移植するというものでした。肺動脈があった場所には人工の血管を移植する必要があります。

もちろんこの手術は前回同様に一度心臓を止めて人工心肺を取り付けて行うため、様々なリスクを伴います。

そして前回の手術で縛っていたものを取り除き、さらに肺動脈を大動脈に移植するには肺動脈についていた1ミリ程度の頸動脈2本も切り取り、移植後に再度縫うということも必要となり、1ミリ間違えたら失敗という難易度の高い手術でした。さらに、大動脈の縮搾部分も切り取る手術も行うことになりました。



この手術しか助かる方法がなかったのですが、うちの子のように小さい子でこの手術ができる医師は日本にはほとんどいないようです。

執刀医である高橋先生は日本を代表するロス手術の名医であるので大変心強く、そのような方に手術をやってもらえるのは嬉しい限りでした。

しかし高橋先生でも年に2~3人しかやっていない手術のようで、さすがの高橋先生もこの手術は気合いが入る手術ですとおっしゃっており、手術の難しさを感じました。


手術の直前の面会で、私は初めて子供の泣き声を聞くことができ、目が開いてるとこを見ることができ、抱っこをすることができました。

それまでは動いている姿を見たことがなく、手術をしたらまたしばらく動けなくなってしまうので、その前に見ることができて少し安心しました。

そして手術室へ向かう直前の見送りの際、すごい笑顔で我々を見ていました。



3回目の手術・ロス手術


手術は約7時間かかりましたが、ほぼ予定通りに無事に成功しました。手術が終わって執刀医の高橋先生から説明がありましたが、最後に「時間かかっちゃってごめんね」と言われました。

夜遅くまで及ぶこれだけの大手術で相当疲れているにも関わらず、そのようなこと言える気配りにもこの方の人間の大きさを感じます。


人工心肺を外して自分の力で自分の心臓を動かせるようになるのが術後1週間以内でないと感染症や脳の障害など様々な危険が出てきてしまうみたいでしたけど、うちの子は術後すぐに自分の力で心臓が動くようになったようでした。



ロス手術後


ちょっと脈が弱くてペースメーカーを着けていましたが、それほど問題はないようでした。あとはしっかり血が循環して尿を出せるようになればほぼ成功。

それまでには少し時間がかかるとのことでしたが、我が息子は翌日には尿が出るようになっており、驚異的な回復力を見せています。

切り開いた胸をすぐに閉じてしまうと圧迫させてしまう可能性があるため、開けっ放しにして手術室から帰って来ました。

しかしこの状態は感染症などのリスクも残っていました。一週間くらいで閉じられればとのことでしたが、またまたこの子の驚異的な回復力で、術後3日で閉じられました。

そして術後5日目に呼吸器が外れ、術後6日目には少量ですがミルクを飲み始めました。手術前の話では、1週間以内に人工心肺が外れないとという話でしたが、1週間以内にここまでの回復はさすがに考えていませんでした。

ここまで来るともうこの子の心臓の強さが怖くなってきました。手術前のあの笑いはこれから起こることを予感していた笑いだったのでしょうか。

とにかくここまで奇跡が続いており、この子の生命力の強さに驚かされていました。


そして術後1週間でPICUに戻っていきました。さらにその翌日の夜に病院から電話があり、急な入院などが増えてしまいPICUがいっぱいになってしまったため、PICUで一番元気なうちの子が小児病棟へ移動することとなりました。

さらに術後10日目にはドレーンも外れ、ペースメーカーも外れていました。術後12日目には私が抱っこしながら5cc程度ですがミルクを飲ませることもできました。さすがに回復が早すぎる。

周りはみんなすごく心配しているのに、何事もないかのように様々な関門の突破してくれています。泣き声もかなり大きいようなので、心臓に毛が生えているかもしれません。

無事に回復すれば、あんなに絶望的だった心臓が奇跡的に元気な心臓に生まれ変わるりそうなところまできています。

アスリートになるのは無理でも普通に生活をするには問題ないくらいにはなるようです。


ここに至るまで、何か一つでも欠けていたら今のような結果になっていなかったかもと思うと恐ろしくて仕方ありません。

妊婦検診で心臓の異変を見つけてもらえたこと、榊原記念病院を選んだこと、無事に出産までお腹で元気で育っていたこと、高橋先生に手術をやってもらえたこと、卵円孔と動脈管が生後もしっかり確保できたこと、バンドの閉め具合がベストだったこと、奇跡的に左心室の機能が向上したこと。ロス手術が無事に成功したこと。

そして、ここに至るまでにお世話になった方には感謝してもしきれないくらいの思いがあります。

最初に異変に気づいてくれた産婦人科の先生、その後の大学病院で診察して今後のアドバイスをくれた東先生や与田先生たち、執刀医として手術をしてくれた高橋先生、嘉川先生、小宮先生、斉藤先生、鈴木先生、産科や小児科をはじめとした榊原記念病院の先生たち、妻が退院後に病院の近くで家を貸してくれた安村さん。

こんなにも多くの人に助けられたのはとても幸せなことで、これから恩返しをしていきます。


パパの激動の育児生活


嫁は3月末から入退院を繰り返し、GW開けからは家から1時間半くらいかかる病院に入院して1ヶ月以上帰って来られなかったため、その間の私は感情的にどん底の状況でしたが1歳10ヶ月の娘の面倒見なくてはならず目が回りそうな日々でした。

お互いの親にも助けてもらったり会社は時短勤務もさせてもらいましたが、毎朝毎晩のご飯やお風呂に洗濯、寝かしつけ、買い物、保育園の準備と送り迎え等々と、体力的もそうですが俺がコケたらというプレッシャーなのか、精神的にかなりハードな日々でした。

しかし娘も突然ママがいなくなった状況で寂しかっただろうけどよく頑張っていました。ママが帰ってきてからの甘えっぷりはすごすぎです。パパと二人っきりの時はあんなにパパーって甘えてきて、保育園に送って行った時の別れ際では毎日チューしてくれていたのに、今ではパパを嫌がるように「パパ、バイバーイ」と笑って手を振ってきます。

そしてもうパパとは一緒に寝たくないようです。しかしママが見えなくなると怒ってしまい、物を投げるようになってしまいました。

そんな状況で、激動の日々を過ごしてとてつもない経験をしました。しかし家族の絆は強くなったように思えます。手術で子供も頑張っていましたが、他の家族や親戚もみんなが頑張って支えあった日々でした。


まだまだ終わりではなく、先の見えない治療が続いていきますが、この子のためにできることは今後も全てやってあげるつもりです。そして、この子の生きていく姿を見られるというまた新たに見つけた人生の楽しみを満喫していきます。


今後についてはまだ安心できる状態ではありませんが、また状況に変化がありましたら書いてみたいと思います。



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